氣付き帳 part 4

当たり前の事を実践しよう

この世に誕生してから今に至るまでの間に、多くのことを学んできました。

幼稚園や保育園で「あいさつは元氣よく」とか「人の悪口は言わない」とか「みんなに優しくする」とか「ありがとうやごめんなさいをちゃんと言う」など、数え上げればきりがないですが、それらはすごく当たり前のことばかりです。

私たちは、今、それらの事が実践できているのでしょうか?

仕事場の嫌いな人の陰口を言ったり、当然の事だからと思って御礼を言わなかったり、相手によって接し方を変えたり、幼稚園児が当たり前にしている事が、大人になった私達はできなくなっているのではないでしょうか。

それは、多くの時間を生きる中で、自分自身を守るためにあらゆるものに執着し、考えてみればどおでもいいようなプライドや地位や名誉、そして、周りの人から良く見られたいと思う周囲に依存した心が、当たり前のことを出来なくしているのではないでしょうか。

そんな余計なものを削ぎ落として、物事をもっとシンプルに捉えることが出来れば、今悩んでいる事や、問題だと感じていた事が何事もなかったように消えてしまう氣がしています。

自分の口からマイナスの言葉が出なくなり、当たり前のように周囲に感謝できる、そんな人になれるように成長していこうと思っています。

動かない心

私は自分の心をどう変化させれば、今の自分よりもレベルアップした心になるのだろうと色々考えるのですが、今の時点で行き着いている答えは、「動かない心」という答えです。
簡単に言えば、周りの状況に影響されない心と言えると思います。

例えば、人は日常生活の中で問題が無ければ落ち着いていることができますが、何か問題が起きると多くの方が今までとは違う氣持ちに変化します。いわゆる「焦り」であるとか、ひどくなると「パニック」と言った状態です。

つまり人は何かが起こった時にこそ、自分の真価が問われるのだと思います。またそれは同時に自らの成長のチャンスとなるのです。

そんないつもと違う状況が急に降りかかってきた時にでも、焦ることなく平常心でいることができる心こそが、私の求めるものになっています。

この話をすると、「感じない心」や「無関心」と勘違いされてしまうことがあるのですが、そうではなく、「動かない心」は周りの状況や他の人の些細な感情まで感じとったうえでなお、その状況に左右されない心という意味なので、「動かない心」は「動けない心」ではないのです。

私のやっている合氣道でも相手がどう攻めてこようとも、そのことに影響されず常に平常心を保ち動かなければなりません。

そうしないと本当に相手を導き投げることなど不可能なのです。

相手に腕をつかまれた時に焦ってしまうと、自分の心が固まって動けなくなります。そうなると自分自身の心が使えなくなるのです。

自分自身の心すら自由に使えない状態で、相手の心を導くなどと言うことはとうてい無理なのです。

つまり「動かない心」とは自分自身の心を自由にコントロールできる状態のことなのです。

自分の心を自由自在に使いこなすにはどうすればよいのかを合氣道を通して学び、日常生活でためして、また日常生活で得たものを合氣道で試してみるというように、つねに自分の心と向き合いながら生活することで「動かない心」を成長させていきたいと思っています。

悩みの正体

人はなにかしら悩みを抱えて生活していますが、その悩みにも大きく分けて2種類あります。

一つは今の状態をより良くする為にどうしたらよいのかと模索する悩みと、もう一つは変化を恐れている時に心が引き起こす悩みです。

人は一般的にどうしたらよいのかが分からない時に悩みます。これは前進する為の手段を探そうとする心があってこそ起こる悩みですが、それとは逆に表面的には同じように見えて、実は変化を避けるために「悩み」という手段を使って今の現状にとどまろうとして悩む場合があるのです。

私たちは問題が起こった時、その問題を解決する為に悩みます。この悩みというのは、解決できるかどうかが分からないという、自分の力量で対処できるかが不安な場合に対してのみ「悩み」というかたちで心がはたらくのです。

つまり自分自身で解決できる(変化させることができる)問題しか悩みとして生まれないのです。

自分自身がまったく対処できない出来事が目の前に起きたとしても、その出来事を自らが悩む問題として認識できないのです。

例えば4歳の子供がいる家庭に、生活を営む為のお金が無いとします。

その家族の大人にとっては大きな悩みの種となりますが、4歳の子供にとっては、戸惑いや悲しみを感じたとしても、悩みにはならないのです。

つまりその子供自身に、お金が無いという問題を解決できる可能性が無い場合、その子供がその解決策を悩みとすることはないのです。

つまりどういう形であれ、問題が起きている現状を変化さえる事ができる人しか、その問題について悩まないのです。

逆に、子供が何かの問題に対して悩んでる時、経験を積んだ大人がその出来事を見ても悩みと感じないことがあります。

これは、子供にとっては解決できるかどうかが不安な出来事であっても、大人に取っては悩むことなく次の手段を講じるなどして、即現状を変化させることができる(問題解決できる)事なので、悩みにならないということなのです。

つまり悩みとは、自分自身をレベルアップさせる為に不可欠なものなのです。

しかしなかには、悩んでいると言いながら現状を変化させて答えを導き出すことを避ける人もいます。

つまり、T字路にさしかかった時、右に進んだ時に起こる自らが予想した情景と、左に進んだ時に起こる自らが予想した情景どちらも受け入れたくない時、悩みという足かせを自らにつけて進むのを止めてしまうことがあるのです。

しかし悩みは変化なくしては解決には向いません。

なかには時間の経過によって変化し、悩みが解決する時もあります。

しかしその場合、自分の成長にはつながらないですし、変化するまでの時間がどのくらいかかるかも分かりません。

その時は時間の経過で問題が解決されたとしても、再び同じ問題に必ずぶつかる時が来るのです。

ならば、自らが悩みに対して行動し、今を変化させる方が全てにおいてプラスではないでしょうか。

ひとは行動する為に「悩み」というきっかけを自らが生み出しているのではないでしょうか。

仏様のものさし

以前に読んだ本に、「仏様のものさし」について書いてありました。

人はそれぞれ「ものさし」を持っています。

善悪のものさし
優しさのものさし
苦しさのものさし
喜びのものさし
悲しさのものさし
感謝のものさし

ひとは出来事に対して様々な感情をいだきます。

例えば「道路にゴミを捨てる」という行動は、善いか悪いかで判断すれば常識では悪いと判断されます。

しかし、その行動を迷いなくなんの感情もいだくことなくしている人は、「道路にゴミを捨てる」という行動を善、もしくは問題のない行動と認識しているのです。

一般常識ではダメなことでも、人によっては大丈夫な事と認識されるのです。

大好きな人がしている行動ならOKだが、大嫌いな人が同じ行動をしていたらNOになったりもします。

それらの判断基準は全て自分自身が持っている「ものさし」ではかられているのです。

私の心理学の先生は中道に生きる事が大切だと言っていました。

またその中道は、自分の物差しの中にはなく、ものさしの外にあるとも言っていました。

ものさしの中心、プラスでもマイナスでのない点は常に自分の判断基準の中に存在しています。

それでは自らのものさしにくるいがあればその中心もおのずとずれてしまうのです。

自分がものさしを持っているように、他の人も自分のものさしを持っています。

互いが自分のものさしが正しいと信じ、他の人をそのものさしではかることで争いがしょうじるのです。

このような話を聴くと、よく「あの人は自分の判断基準を他人に押し付けてるね、解ってないなぁ~」と他人を非難する人が出てくるのですが、そう言っている人自身が自分のものさしで他人を判断しているのです。

そうならないように、他人の行動に目を向けるのではなく、常に自分の行動にまずは目を向ける事が必要なのです。

それが出来てはじめて、「仏様のものさし」が使えるようになるのではないでしょう。

物事の捉え方

私たち人間は、物事を主観的に捉えてしまうことが多くあります。

これは、ひとつの方向からしか物事を見ないことで、他の意見を拒否し自らの考え方を守る防衛本能とでも言えるのかもしれません。

しかしひとつの考え方にこだわることで、時には自分の首を絞めてしまうことすらあるのではないでしょうか。

例えば、女性は料理が上手で家事を完璧にこなし、結婚すれば夫を常に立てるのが当たり前だと思っている男性がいるとします。

その男性が女性と付き合いたいと思っても、自分で作り上げて価値観で女性を見ることで、希望の相手とめぐり合うことは難しくなります。

そうなると、結婚したくてもそこまで進展することも難しくなりますし、もし結婚できたとしても、自分の意に沿わない部分を見たら相手を自分の考え方に同調させようとして相手に変化を強要してしまい、関係が悪くなり離婚する可能性も大きくなるのです。

こうして、自分の意に沿わない考え方や行動を否定することで、女性と付き合うチャンスや楽しい結婚生活を過すチャンスも遠ざけているのです。

つまり、自分の考え方を変化させることが怖いがために頑固になり、自分をサポートしてくれるはずの存在すら排除してしまう結果につながってしまうのです。

物事をひとつの方向からしか見なければ、それにともない導き出される結果も限られてきます。

しかし物事を色んな角度から見ることができたら、色んな捉え方ができることで選択肢が増え、自らを追い込んでしまうようなことも少なくなるのではないでしょうか。

ひとつ例を上げると、身近な人が他界した時に悲しくて涙がでます。

その時にその「死」を色んな角度から捉えることで、ただ悲しいだけのものではなくなるのです。

私事ですが、私の父が他界した時、その「死」をどう捉えたら良いのかを考えたことがあります。

まず、もし自分が父の立場で家族を残して他界したとして、残された家族がただただ悲しみにくれて泣くばかりだったとしたら、それを見た自分は家族を悲しませた責任を感じて天国になかなか行けないのではないだろうかと考えました。

そう思うと悲しんでばかりはいられないなという想いが生まれたのを覚えています。

また、それまではあまり会話もなく少し距離があると感じていたの父との関係が、他界したことでもしかしたら、生きている時よりも近くに居てくれるのではないかという氣持ちにもなりました。

この「死」というものをただ悲しいだけで終わらしてしまうことは、亡くなった方に申し訳ない氣がします。

「死」を次に進むエネルギーにし、その方の死をむだにせず生かしていくことが、亡くなった方にとって最も良い供養になるのだと氣付いた大きな出来事でした。

このように物事を色んな方向から見ることで、今まで見えなかった事が見え、自分自身が前進する大きなチャンスを手にすることができると私は思っています。

瞑想をする意味

私たちの人の意識には、「顕在意識」と「潜在意識」があると考えられています。

顕在意識とは自らが自覚できるはっきりと認識できる意識のことですが、潜在意識は自分でもはっきりと認識できない心の根とも言える意識の事です。

私たちは顕在意識により物事を考え判断しているように思っていますが、実は顕在意識よりも潜在意識の方がより影響力を持ち、自分の考え方や行動に大きく影響しているのです。

今まで私は精神の世界に興味があるにも関わらず、瞑想の部類にはなぜか抵抗があり足を踏み入れませんでした。

それは何故か自分でもはっきりとした理由が分からなかったのですが、ある知人からこんな事を聞き、「はっ!」としました。

それは、「瞑想の世界では主語は無いんですよ」というものでした。

私はこの言葉を聞いてようやく氣付くことができました。

瞑想は自分自身だけをよりたかみへと導くものではなく、自分を含めた他の生命すべてを穏やかな世界に導くためのものだったのです。

瞑想までする人が、ただ自分の為だけに物事を考え行動するわけがありません。

今まで瞑想は自分の為だけのものという認識があり、瞑想事態に魅力を感じなかったのです。

よく、瞑想をしたらこうなると言って、自分に対しての有益な現象や具体例をつらねた宣伝を見たり聞いたりしていた影響か、瞑想で潜在意識に働きかけること自体があまり精神的に必要でないと感じていたのです。

しかし、「瞑想の世界では主語は無いんですよ」という言葉を聞いてその勘違いに氣が着きました。

瞑想や心理学の世界では、この潜在意識は深い部分で他の人達、また全ての生命ともつながっていると考えられています。

つまり瞑想することで、潜在意識がより穏やかに優しく、また明るいものになると、他の人達にも穏やかで明るい心を育むことが出来るのです。

合氣道の稽古を通して、心は相手にうつる(伝わる)ということ知っていたのに、そんなことになぜ氣付かなかったのかと恥ずかしく思います。

相手の心を動かすのは、こちらの心の使い方一つで可能になります。

しかし今まで認識していた心の使い方は顕在意識だけのもで、潜在意識のあり方には氣をあまり向けていませんでした。

しかし考えてみると潜在意識の方がより私自身にも影響を与えているのであれば、この潜在意識を変えることで、より強い影響力をもって他の人ともかかわることが出来るのです。

私自身が変化することで周囲の人も穏やかになれるのなら、こんな素敵なことはないですよね。




 

2