氣付き帳 part 3
心のフィルター
私たちは常に環境に影響を受けながら生活しています。
いろんな人の話を聴いたり、本を読んだり、日々の出来事から新しい氣付きがあったりと、様々のものから私たちの心は影響を受け成長していきます。
しかし、それと同時にマイナスの影響も受けやすいのです。
例えば、「近所の○○さんは××らしいのよ!嫌よね~」などというような噂話などがあります。
人は自らを守るため、本能的にプラスの作用よりもマイナスの作用に敏感に反応するようになっています。
なので、マイナスの表現や言葉などにすぐ心を揺さぶられてしまうのです。
その為に、マイナスの表現をする先ほどのような噂話などは、自らの主観が大きく反映されて、次に伝える時にはもとの話よりもマイナスな表現が大きくなって伝わることが多々あるのです。
なので私は基本的に、プラスの表現をしいる話は素直に受け取り、逆のマイナスの表現をする話はほとんど信用しないようにしています。
自らが見たり感じたりして直接得た情報でないことを、フィルターを通さず信用してしまうと大きな勘違いや、自らの人間的な価値を下げる行為につながってしまうからです。
身の回りの環境から感じ取ったものは、もう一度自らの心のフィルターを通してみて「本当にこの感じ方がベストなのだろうか?」と感じ方を選別する作業が大切なように思います。
心の器を大きくするには
ひとはそれぞれ、心の器を持っています。
大きい器を持っている人もいれば、小さい器を持っているの人もいます。
私は自らが持っている器をどれだけ大きくして行けるかという事が、人生を歩む一つの目標のように考えています。
しかし、この器が大きいから良くて小さいからダメだということではありません。
この器を大きくさせる事は、各個人の目標であって、他と比較して論ずるものではないと思っているのです。
他の人がどうであれ、自分の器を大きくするという事が重要なのです。
それでは皆さんは、この器に何が入っていると思いますか?
これは私の考えですが、この器には何も入っていないと思います。
それは何故かと言うと、この器の底には穴が開いていて、入ってきた水がすぐに底の穴から流れ落ちてしまうのです。
しかし、いっきに大量の水が注がれると、穴から流れ落ちるより早く器がいっぱいになってしまい、あふれてしまいます。
これは、器の持ち主が受け入れることが出来る出来事という水しか入らなくなっていて、許容できる事であれば、あふれること無く、すべて底の穴から問題なく処理されて、心が乱れることがないのですが、許容できないような出来事は、穴から流れ出る前にあふれてしまうのです。
そのあふれた水は、自分の心に動揺を招き、苛立ちや焦りと行った落ち着かない心の状態を作り出すのです。
なので、ある一線までの事なら落ち着いて処理出来るが、これを越える問題がおきたときは焦ってしまい、俗に言う「てんぱった状態」になるという事が起こってしまうのです。
それではどうすれば自分の心の器を大きくする事が出来るのでしょうか。
それは、心の粘土を使って器のふちを少しずつ高くしていくしかないのです。
いっきにふちを高くしようとしても、心の粘土は軟らかいのでなかなかうまくいきません。
なので少し高くして乾かし、乾いてからまた次の粘土でふちを作っていくのです。
それをするにはまず、自分の器からあふれ出してしまうギリギリの分量を把握することが大切になってきます。
なぜなら、器からあふれ出してしまうような問題を回避する必要があるからです。
自分が受け入れる事が出来る分量が分かっていないと、問題が発生してはじめて対処するという事の繰り返しになってしまいます。
つまり、心構えや備えが全く出来ないのです。
問題に対して心構えが出来ていれば、その後しないといけない問題を解決する為の行動も、前もって考える事が出来ます。
そうすれば、焦らず問題を処理できるのです。
そうしていけば、軟らかかった心の粘土は固まって、少しずつ器を大きくしていけるのだと思っています。
私の人生の目的とするものを再確認する
私の人生の目的、それは
①自分自身を成長させること (心身統一合氣道でいうと「天地と一体となること」)
②合氣道を通して、心の大切さを多くの方に伝えこと
この2つが私の人生において大きな目的です。
①の「自分自身を成長させる」というのは、もちろん24時間全ての時間の中で考えている必要があります。
合氣道の稽古時間のみで自分の人間性をレベルアップさせるには、かなり時間的に短く思えます。
日常生活の中で心を穏やかに保ち、常に落ち着いた心の状態をつくることを心がけています。
そうすることで日常生活が合氣道にも活かせますし、また合氣道を日常生活にも活かすことができるのです。
そうして自分を成長させることで、周囲に及ぼす私の影響をより良いものにできると考えているのです。
そして②の「合氣道を通して、心の大切さを多くの方に伝える」という事も具体的に活動していきたいと思っています。
とにかく、私は合氣道を私自身の人生を測る物差しとして選んでいるので、「自分自身を成長させる」ことを考えて行動していれば、自然と「合氣道を通して、心の大切さを多くの方に伝える」という事も付いてくるのではないかと思っています。
人との繋がり
先日、心理学を一緒に学んだ皆様と久しぶりに再会する機会がありました。
その時に感じたことは、人とのつながりというのは不思議なものだなということを思いました。
人は、他の人とのつながりがあって大きく飛躍するものだと思っているのですが、そのつながりが時として自らの成長を邪魔してしまう事もあるのです。
よく恋愛話しなどで、「あなたがいないと生きていけない」というフレーズを耳にします。
実際、社会の中で人として生きていく為には、他の人とのつながりなしでは存在できないのが事実ですが、それを理由に自分の存在を他人に依存してしまっては、自らの成長が困難になってしまいます。
他人に依存する氣持ちが強いと、何か問題が起こった時に他人のせいにしてしまいたくなるのです。
そうすることで、自分の未熟な部分(成長できる部分)から目をそむけてしまうのです。
私たちは、問題や悩みに出くわした時、その問題の原因を外に探すのではなく、内に(自分自身に)目を向けてはじめて成長の一歩を踏み出すことができるのだと思います。
そのことを自分自身が理解したうえで人との関係を築きあげていくことができた時に、お互いが理想とする関係が生まれるのではないでしょうか。
「この人がいないと駄目だ」という関係ではなく「この人がいなくても大丈夫。だけどいてくれたらすごく嬉しい」と思える人間関係を数多く築いていきたいものです。
人とは?
哺乳類には男女の性別があります。
自然界では性別によって役割が決められている事が多くあり、人間も性別の違いが個人の考え方などに大きな影響を与えていると考えられています。
しかし人間は他の動物とは違って、知能や理性といったものを発達させて社会生活のルールを築き、それに沿って生命を維持する仕組みを考え出してきました。
知能が発達し、多くの幸せを手にした反面、不幸な感覚も同時に生み出してきました。
その一つに、ひとはあらゆるものを認識しやすくするため、無意識のうちに認識したものを自分の都合のいいようにグループ分けをしてしまうという癖を持っています。
例えば、男と女や肌の色などもそうですし、心の領域では善悪や正しいこと間違ったことなどと、すぐに分けて考えてしまうのです。
それがすべて問題だとは思いませんが、分けなくてもよいところを無理に分けてしまい弊害を生んでいることも多々あるのです。
そしてその枠組みに縛られてしまい柔軟な考え方ができなくなってきているのではないでしょうか。
例えば人の理性の大きな判断基準のなかに「正しい」「間違い」というものがあります。
この基準も生活環境や教育などで変化するものですし、その人それぞれの主観が大きく影響してきます。
誰かの言動を自分の基準で間違いか正しいかを判断して、その人のことを恥ずかしく思ったり、また素晴らしく思ったりするのです。
私はそんな自分の物差しで他人をはかることに抵抗を感じてしまいます。
なぜなら争いの原因は全て自分の物差しで他人をはかったことにより生じると考えているからです。
一番根が深い争いのひとつに宗教戦争があります。
神を崇拝し幸せを願う宗教のはずが、自らが信仰する宗教によって他の宗教をさげすみ争いをおこし、お互いの信仰の正しさを押し付け続けるのです。
心を穏やかにするはずの宗教でさえ他人にその物差しをあててしまえば、戦争を生むのですから、自分の物差しで他人をはかることは避けるほうがいいのかもしれません。
自分の物差しは、自分自身にあてて、己を律するために使うものだと私は考えています。
ひとは一度つくつた枠組みを自分自身で壊すことが出来た時、はじめて成長できる生き物なのではないでしょうか。
人はなぜ繋がりを求めるのか
よく歌の歌詞などで「人は一人では生きていけない...」というような表現がよく使われています。
おそらくそれは事実なのだと思います。
もしも、手付かずの孤島に一人だけで生きていかなければならなくなったとして、その人に自然の中で生き抜く為の知識があったとしても、人間一人では命を繋ぐことが出来ないので、いずれそこからは人間の命は絶えてしまいます。
この事は人間に限らず全ての生命にいえることだと思います。
つまり人は(それぞれの種は)自らの生命のカケラを残す為に繋がりの中でしか生きていけないのです。
しかし、その必要不可欠な「繋がり」、または人間にとっては「社会」や「人間関係」といったものが成り立っていて当たり前だと考える傾向があるように思えます。
どういう事かというと、例えば恋愛などで、「あなたがいないと生きていけない」と思う心があります。これは一見「人は一人では生きていけない...」と同じように思われがちなのですが、まったく違うものなのです。
「あなたがいないと生きていけない」という事は自らの生命を相手にゆだねているように見えますが、実は相手の生命を(心を)自分のものように勘違いしているのです。
つまり、「自分ひとりでは立っていられないから、常に私のそばにいて私を支えなさい」と言っているのと同じ事なのです。
赤ちゃんや物理的に介助がなくては生活できない方々がその助けを必要とすることは当然なのですが、そうでない人がただ自らの寂しさから相手を拘束しようとする心は、ただのたちの悪い甘えと言えるのではないでしょうか。
人は生きていたら一人で考え一人で乗り切らなければならない時が必ずあります。
そんな時にでも、くじけずに生きていける自立した心が必要なのではないでしょうか。
自分とは違う考え方をしている人に無理に考えを押し付けず、相手はそれでOK、そして自分もこれでOKと思える変な甘えがなく、お互いが自立(自律)した中でできる関係こそ本当の繋がりだと考えています。
成長とは
さて、「成長」とはいったいどのような事をいうのでしょうか?
大きく分けて、「技術面の向上」と「精神面の向上」この2つが思い浮かびます。
技術面の向上は人によって必要としている技術が異なるので、自らがどの技術を伸ばしていくかを決める必要があります。
そして、そのスキルアップに努めれば自然と上達していくものです。
しかしもう一方の精神面は、どのようにすれば向上させる事が出来るのかという教科書のような物がないので、誰かに手取り足取り教えてもらうことが出来ないのです。
以前、一緒に仕事をしていた方からこんな言葉を聞いた事があります。
それは「私は仕事だけを効率よく確実にこなす事さえできればいいと思っていました」という言葉でした。
その時私は現場を指揮する立場で、中心となっていた方に「仕事には技術的な成長だけではなくて、人間性の向上も不可欠なんですよ」という話をしていた時でした。
一つの仕事を確実に早くこなす事ができたとしても、それを取り巻く環境の中には他の人達との関係が必ず存在しています。その人間関係が円滑にまわらないと、自分自身が出来る最高のパフォーマンスが出来なくなるのです。
私達が機械で感情の無いロボットならそんなことは無いのですが、仕事をこなしていく私達自身も感情(心)を持った存在なので、その心が安定していないとそこから表現される物(仕事)が、安定していて細部まで繊細なものではなくなってしまうのです。
そこで、どのようにすれば精神面を向上させる事が出来るのかが知りたくなってきます。
前に、精神面を向上させる為のマニュアルは無いと書いたのですが、その表現は少し間違っています。
実は、あまりにも簡単すぎてマニュアルにならないのです。
それは、「変化する」という事です。
今の自分を変化させる、または変化する事を怖がらないという事なのです。
例えば、一人ひとり価値観が違うのは当たり前ですが、自分の価値観が一番正しいと思っている人は、相手の話を素直に聴くことが出来ません。
これは、自分自身が変化する事を恐れている為、相手の話を聞けないのです。
本当に自分の価値観に自信があれば、誰の話でも正面から耳を傾ける事が出来るはずです。
しかし、相手の価値観で自分の価値観を否定される事を恐れている為に、相手の価値観を頭から否定するという行動が生まれてしまい、素直に相手の話を聴けないのです。
つまり変化する事を恐れているのです。
環境が変化した時に、自分自身も変化して新たな環境に適応しようとする人はどんな環境でも自分の力を発揮できます。
人間関係でトラブルがあった時、相手の言動で左右されてしまう安定していない自らの心を改善しようとする人は、心が寛容寛大な人になれます。
外部に変化を求めているだけでは自らが成長できないのです。
つまり「自分自身の変化」=「成長」なのです。
そしてもし、変化した結果がもしマイナスな物であっても、それはこの先のプラスに至る為の途中経過にすぎないと私は考えています。
成長をはかる物差し
ひとは生まれてから、成長という道を歩み続けます。
今の自分はどのくらい成長しているのかという事を確認する事ができたら、面白いと思いませんか?
その一つの方法を書きたいと思います。
私たち人間はこの世に生を受けた時、自分ひとりでは生きていく事の出来ない存在として生まれてきます。
この時は、周囲の人がすべとの事を引き受けてくれて、自分自身は何もしなくていい環境を作ってくれるのです。
そんな環境からスタートする事で、周囲の人は私が思ったように動いてくれて当たり前という、わがままな心が備わります。
その時の成長値を簡単な言葉で表せば、第一段階「自分に甘く、他人に厳しい」という状態です。
その次の段階に進むと、自分が他人に対する甘えていたという事に氣付き、自分に厳しくなっていきます。
しかし、他人に対する甘えはすぐに抜けないので、周囲の人に対しても自分自身に厳しくなるという事を求めてしまうのです。
つまり、第二段階「自分に厳しく、他人にも厳しい」状態です。
そしてその次は、他人に対して何かを求めるのではなく、自分自身に求める事が重要である事に氣付き、周囲の人が未熟で失敗したような時でも、それを寛容に受けとめて導く事が出来るようになってきます。
この時期は第三段階で「自分に厳しく、他人に優しい」という状態です。
そしてこの次の最終段階は、結論からいうと「自分に優しく、他人にも優しい」という状態であるということです。
自分に厳しいという状態は、「こうしなければならない」という考えが存在してはじめて生まれる考え方です。
つまり「本当はしたくないが、しなければならないからしょうがなくする」という心が少しでしょうが存在しているのです。
その心から、「私はそうしたいからする」という心に進化すれば、自分に対して厳しくしなくても、自然にそうしているという結果が付いてくるのです。
ただ今の状況を素直に受け入れ、その状況のなかで自分はどうしたいのかという事を把握し、進む事ができれば、嫌々何かに取り組むという事はないはずなのです。
しかし、第三段階の心が少しでも残っていると、自分で選んだ道なのにも関わらず「いやだなー」という心が残っているために、頑張らないと進めないという状態になってしまうのです。
私たちは、今ここに居る事をえらんで、今ここで生きているという事は、全て自分が求め自分で決断した結果、今が存在しているのです。
その事に氣付くことができれば、「自分に優しく、人にも優しい」人になれるのだと思います。
先入観の罠
私たちは物事を、ありのまま把握することがなかなか出来ません。
中には自分自身の考えている事が真実と思っている方もいるかと思います。
しかし、その思いは本当に真実なのでしょうか?
テレビやインターネットなどで得る情報や誰かが話していた言葉、また自らが目にした出来事など、たくさんの情報源があります。
そのたくさんの情報源から得たものを自らの中に取り入れ、物事の判断材料としているのです。
しかし、どのようにして得た情報であっても、それは自らの感想や自らの判断基準で作り上げられた、自分自身の心だけにしか存在していない判断基準なのです。
つまり簡単に言うと、自分自身がそう思っているだけで、真実はどうなのかわからないという事なのです。
テレビなどの情報も、それを作る人たちがいます。そこにはその人たちの主観が多かれ少なかれ必ず含まれます。そして表現方法や伝える人の口調、しぐさなどでも、相手に与える印象は変化します。
また限られた情報だけでは、その物事の全体が見えてこないので、一部の情報だけでは全体を把握できたとは言えないのです。
テレビなどの公共の電波で運ばれる情報は、出来る限り主観をいれず、真実に近いものを伝える努力はされていますが、家族や友達、会社での噂話などの情報源は、かなりの主観が含まれているといえます。
特に、誰かの悪口などのマイナスな情報は、かなり誇張されて伝えらるれことが多くあります。
そのマイナス情報は伝える人が多くなればなるほど、その数だけ主観が入り、真実とはかけ離れた情報になっていくのです。
どのような情報であってもそれは本当の事を判断する一つの材料に過ぎないのです。
事前に聞いていた事は先入観となり、ありのままの真実をぼやかしてしまいます。
そして、物事の本質を捉えにくくしてしまうのです。
私たちは、何かに対し抱いた思いはあくまでも、自分自身の感想に過ぎないという事を認識する必要があるのかもしれません。
そしてそれは、自分の位置からしか見えていない側面だけの一部の情報だということも知っておかなければならないと、私は思っています。
多くの情報に振り回され、先入観で判断するのではなく、自分で感じ取り判断した事が、今の自分にとっては最も真実に近い情報なのではないでしょうか。
損得勘定
よく「損得勘定だけで判断してはいけない」というような言葉を耳にします。
でも私はその考え方には??が付きます。
おそらく道徳的には、自分が損をしても周囲のひとが幸福を得ることができれば、それは素晴らしい事という判断になるのだ思います。
でもそうであれば、嫌々でも誰かのために何かをする事は素晴らしいということになってしまう。
そう考えるとかなり違和感を感じてしまうのです。
なので私は、損得勘定で動くことには大賛成しています。
ただ、何を自分の得と考えるか、損と考えるかということが大切になってくるという事です。
周囲の人がどうなろうと私のしたいようにするという事も損得勘定でしょうし、家族が幸せになるのであれば自分の命など惜しくは無いと考えるのも同じ損得勘定だと思います。
ただ自分がどうしたいかということだけなのです。
最初に嫌々でも誰かのために...という事に違和感を感じると言いましたが、嫌々であっても自分が与えられた環境の中で判断を下して行動を取っているのですから、それも自分が選んだ一番自分にとって動きやすい行動なのです。
つまり自分がとる行動はすべて自分にとって自分が「得だ」という判断の上で行動しているのです。
日頃、嫌だ嫌だと思いながらでも取っている全ての行動は、自分が今の自分にとって一番楽な行動だと判断した上でとっている行動だということなのです。
その行動は無意識かもしれませんが、色んなことを天秤にかけて自分が最も得をするために出した答えなのです。
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