氣付き帳 part 2
構えない事の大切さ
ほとんどの武道には「構え」というものが存在しています。
攻撃を仕掛けてくる相手に対して、自らの状態をその攻撃に備えて準備するというものが一般的に言う「構え」です。
それは身体の構えももちろんですが、心の構えも同時に行われているようです。
しかし私はそのあり方に??が付いてしまいます。
その訳は、相手の状態によって自分自身の状態を変化させるという事にあります。
つまり、相手の状態にそのつど影響を受けるという事になるからです。
なぜそれに疑問を持つのかと言うと、私たちは日常生活の中で何事もなく問題が起こらない状態であれば、心を穏やかに保つ事ができます。
しかし、トラブルや日常と違うことが起こると、焦りや戸惑い、いらだちや怒りなどという感情が生まれやすくなります。
そんな安定しない心の状態でベストな対応ができるはずがありません。
トラブルが起きた時こそ、落ち着き、焦らず冷静に対応しなければならないのです。
つまり何か予期せぬ事が起こったとしても、いつもと同じ穏やかな心でいることが求められるのです。
「何が起きてもいつもと同じ穏やかな心を保つ事」そこを考えると、何かが起きてから自らの状態を変化させて構えるという事が納得できないのです。
私の考える「構え」とは、何かが起きても揺るがない心を保つ「心構え」を持つ事だと思っています。
考え方をまとめよう!
今の世の中は、多くの情報がすぐに手に入ります。
知りたい事を瞬時に知る事ができる、すごく便利な世の中です。
しかしその反面、情報が多すぎて、本来ならその情報を利用する立場の私たちが、逆に情報に振り回されがちになっているように思えます。
合氣道の稽古でも、先生方によって説明の仕方や、細かな部分での伝え方が少し違っていたりしますし、技によっても説明が変化したりもします。
学ぶ側にとって、いろんな角度から一つのものを見るという事は大切ですが、その数多くの説明(情報)を全てそのまま利用しようとすると、氣持ちが定まらず、本当に大事な事を見落としがちになることが多いのです。
そうならない為にも、多くの説明(情報)をまとめるという事が大切になってきます。
しかしここで誤った方向にまとめてしまうと、もともこもありません。
失敗しない為には、まとめた情報が本当に正しいのかという事を実践検証していくことが必要なのです。
状況が変化しても真理というものはゆらぎません。
今の自分にあった考え方を、いろんな状況の中に当てはめ実践し、結果を導きだし、自分の成長と共にその考え方も変化させていけば、本当にシンプルでどんな時でもこの考え方だけで対処ができるという、法則が見つかるのではないでしょうか。
行き着くところ
武道も沢山の種類や流派がありますが、全ての行きつく所は一つだと思います。
武道以外のスポーツや音楽、日本舞踊や書道なども例外なく、それを極めると、行きつく所は同じなのではないでしょうか。
身体や道具などを使っての表現方法は全く違っても、それを創り出す人の心境や細かな感覚、またその人たちが向上するために目指す自分自身の人間性などは共通していると思います。
ただ技術だけを上達させてもあるレベルまで行くと限界がきます。
それ以上のレベルを目指すためには、自分自身の精神(人間性)を磨く必要が出てくるのです。
その時に何事も心が荒いと繊細な感覚や常に変化する環境に対応できず、今以上の向上が困難になるのです。
なので、技術の向上も必要なのですが、それと平行して精神の向上も図らないといけないのです。
そうする事で、進む方向もぶれにくくなり、技術面の向上もスムーズに行くのです。
その行きつく所とはいったいどのような所なのでしょうか?
私自身もまだどんな所なのかは知りませんが、確実に言えるのは、決して心に争いなどの荒さがあってはいけないという事だけは確実なようです。
いつも穏やかで心が落ち着いていて、否定や抑圧のない精神が不可欠なのです。
私たちは毎日、何かの為に必死に生活しています。
その「何か」とは何なのでしょうか?
それは、幸せでありたい、穏やかな氣持ちで常にいたいという願いだけなのではないでしょうか。
合氣道に勝ち負けがない訳
今、格闘技がすごい人氣を集めています。
やはり強さを競い合う事はシンプルで解りやすく、決まったルールのなかで「勝つ」というはっきりとした目標があることで、方向性を見失いにくいので多くの人に受け入れられているのだと思います。
そして武道も同じようにスポーツ的な要素が強くなってきています。
柔道や剣道も試合をし、勝敗をはっきりさせます。
そうすることで誰が見ても解りやすく、世の中に認知されやすいのです。
しかし合氣道は勝ち負けという概念がありません。
なぜなら、合氣道は投げた方が勝ちとか投げられた方が負けというものではなく、投げる側も受身を取る側も両方とも合氣道なのです。
決して投げる側だけが合氣道ではないのです。
合氣道は力が要らないということが一般的に知られていますが、それは相手を投げようとした時に力が入ってしまうと、相手も投げられまいとして力で阻止する事ができるのです。
つまり、力比べになってしまうのです。
もし、相手を投げると勝ちになるというルールで合氣道をすると、勝つ為に相手を投げることに執着してしまいます。
そうすると、自然と身体が力みます。
そうなると力の強いものが勝つことになってしまうのです。
しかし、合氣道は力を完全に抜くことで、相手に力を使わせる隙を与えないのです。
そうすることで、筋力を使わず相手を投げることができるのです。
なので稽古風景を見ると投げ受けお互いがなめらかに動くので、八百長っぽく見えたりします。
力を完全に抜く稽古を続けて、相手を投げることへの執着を捨てた時に、はじめて相手を本当に導き投げることができるのです。
その為に、合氣道を観ていて格闘技のような興奮が得られることはありません。
だから柔道や剣道のように普及しないのかもしれませんね。
しかし、合氣道のあらゆる要素は他のスポーツに幅広く使う事ができます。
実際に著名なスポーツ選手も数多く合氣道を学んで好成績を残しているのです。
合氣道は相手を投げる為に稽古しているのではなく、自分と向き合うために相手に技を掛けさせてもらい稽古しているのす。
終戦記念日
1年に一度8月15日の終戦記念日が必ずやってきます。
そこで何故、争い(戦争)が起こるかを考えたいと思います。
その理由が分かれば戦争を起こさせないように出来るのではないでしょうか。
まず、争いの原因は何なのでしょう。
おそらくそれはすごく簡単な事なのだと私は考えています。
争いや反発は、自分の思ったように誰かが動いてくれないと感じた時、つまり自分の考え方が相手に受け入れてもらえなかった時に、その考えを相手に押し付けることで生まれるのだと思います。
押し付ける側にも、押し付けられた側にも、相手を受け入れる心がないと、そこに争いの種が芽生えてしまうのです。
もし本当に戦争がない世界を願うのであれば、まず自分自身に問いかける事が必要なのではないでしょうか。
誰かに、「戦争を起こしてはいけない」と伝える事も大切ですが、まずは自分自身の中の、誰かを見下したり、ののしったり、否定したりといった争いの心を静めることこそが、一人一人に出来る最も大切な事ではないでしょうか。
よく「私は戦争を起こした人だけは、絶対に許せない」という人がいますが、その「絶対に許せない」という心こそが戦争を起こしているのだと思います。
誰かにマイナスの感情を持った時点で、自分にも戦争を起こす可能性があるのだという事を自覚しなければならないのです。
その自覚がないと「自分の考えが正しいのだ」と思い込み、相手を見下し否定する心が顔を出すのです。
まず、自分自身と向き合い、自分の弱さや愚かさを自覚する事こそが、戦争をなくす近道ではないでしょうか。
誰かに自分の考えを押し付けていないか、誰かを否定していないか、自分の考え方が絶対正しいと思い込んでいないかと、自分の弱さを見つめる強さが必要なのだと私は思っています。
私が求める合氣道
合氣道にも色んな流派があります。
そして、同じ流派でも先生によってその教えが違うこともあります。
そんな中で教えていただいた事を全てそのまま吸収することは容易ではありません。
講習などで他の先生から教わると、「えっ!」と思う事も今までたくさん経験してきました。
合氣道を習い始めてまだあまり経っていない方がこんな経験をすると、どちらを信じればいいのか分からない状態になり迷いが生じます。
しかし、その多くの先生方が目指しているところは、同じものなのです。
先生に関わらずどんな方でも、自分自身の今の状態に見合った感覚や見合った物事の捉え方があります。
今はこの感覚で出来ていても、数年後には違った感覚を得ていたりするのです。
そんな個々の違った感覚から出た教えなのですから、違って当たり前なのです。
そこで、どのようにすればその違った教えを迷うことなく吸収できるかがポイントになってきます。
結局、目標とするところは同じなのですから、その本筋をシンプルに考えればいいのです。
つまり、合氣道は和合の武道なのでそこに争いがあってはいけません。
争いがあったら相手の氣(心)を導く事など不可能なのです。
その事を踏まえると、肉体に痛みを感じさせたり、不快な氣持にさせるような合氣道では本当の合氣道ではないと私は考えています。
おそらく達人の域に達しないと、そんな事は出来ないと思いますが、その究極の目標が自らの意識の中にはっきり描く事ができれば、色んな教えを聞いたとしても、自由にチョイスし、また全ての事を一つにつなげて考える事ができるのです。
簡単に言えば、自分自身でどのような自分になりたいのか(どのような合氣道がしたいのか)を明確にすればよいのです。
そのうえでいろんな方から学び、自分自身が間違っているなと感じれば方向を修正し、より真の目標に向ってまっすぐ進めばよいのだと思っています。
迷いが生まれた時は、まず自分自身がどこに向おうとしているのかという事を、自分に問いかける必要があるのではないでしょうか。
自らの心と向き合う
以前に「自分自身に目を向けることが大切だと」いう内容を書いたのですが、私たちは日々変化し続ける現実の中で生活し、その環境に影響を受けているので、その環境の中で自らの心に目を向けることは難しい場合があります。
どのようにすれば自らの心、言動に意識を向け、成長の足がかりを得たらようのかが問題になってくるのです。
その問題を解決する為には、まず自分自身の心の動きがどれだけの影響力をもち、自らの人生でどれだけ重要なのかを知る必要があります。
そうする事で自分自身の心に目を向けることが、自らにとってはもちろん、その周りにいる人に対してもどれだけプラスの効果を生み出すのかが理解できるのです。
しかし人間は誰かの命令で行動してもあまり大きな進歩はなく、自らの意思で行動しなくては大きな本当の成長はないのです。
ではどうしたらよいのか...
てっ取り早い方法が自らの選択した道、つまり大好きな事を「極める」という方向に進めばいいのです。
技術的なことは経験と時間が解決するのですが、それだけではある時点で成長がストップしてしまいます。
それよりも先に進むには、繊細な事をも感じ取りながら自らも繊細で強い心が必要なのです。
自らの言葉使いや、身近にいる人たちの氣持ちを敏感に感じ取る穏やかな心など、技術面ではカバー仕切れない領域を磨かなくてはいけないのです。
その為には自分自身と向き合うしか方法がありません。
それが大好きな事の為であれば、その能力の向上は自らが自然と追い求める事になります。
そのなかで、壁にぶつかった時に本当に自分に欠けていた部分に氣付き、本当の心の成長が始まるのだと思います。
自分らしさ
よく自分らしさは何なのかと悩んだりする方も多いと思います。
また、「これが自分らしさだ!」と言って自らの考えを押し通してしまう人もいます。
いったい「自分らしさ」とはなんなのでしょうか?
おそらく多くの方はそれは自分の個性で、自分の中に持っているものだと考える人がほとんどだと思います。
私も以前はそう思って、色々考えた時期がありました。
しかし、どうやっても腑に落ちる答えが出てきませんでした。
そこで考え方を少し変えて、聖人(イエスキリストや仏陀など)と呼ばれる存在の人は個性を大切にしただろうかと考えてみました。
つまり個性自体が必要であるのか無いのかを考えてみたのです。
そうしたら、自分の中で出た答えは「そんなものにはこだわる必要は全くない」というものでした。
それは何故かと言うと、よく「個性が無い」「自分らしさが無い」と他人を非難するひとがいます。
しかし、聖人といわれる人が自分自身を強調するような個性を必要とするはずが無いと思ったのです。
ただ周りの人が幸せでいる為に自分自身に何ができるかという事を考えていただけのように思えたのです。
そんな聖人といわれる人に「あなたには個性が無い」と非難する人がいるはずがありません。
また100人いれば100通りの見方があります。
つまり、自分自身が「これが自分だ」と言って強調している個性と思っているものが、周囲の人から見れば全く違う別のものに見えてしまうのです。
つまり「個性」というものは自分自身の中には存在せず、周囲の人が作り上げていくものではないのでしょうか。
宗教心
今、世界には沢山の宗教があります。
それぞれの宗教には決まり事の違いなどはありますが、共通しているのは、その宗教を信仰する事で、幸せを手にしたいという人々が集っているという事は間違いないのではないでしょうか。
しかし、幸せになるという共通の目的を持った人々が、宗教の違いから争ったり傷つけあったりしているのも事実なのです。
なぜ?
それはおそらく、自らが信仰する宗教の考え方が絶対で、他の宗教は間違っているというような考えがそうさせているのだと思います。
人は自らの価値観(考え方)を正当化するために、他の考え方を否定し排除したくなるようです。
受け入れがたい他人の言動を見つけると非難をし、またその考え方を自分に押し付けられたりした時には、破壊的行動を取ってしまうケースも少なくありません。
しかし、誰もが自らの幸せのためにその価値観を持ち行動しているのです。
他の価値観を否定した時点で、自らの価値観も否定した価値観と同質のものになってしまうのではないでしょうか。
つまり、自らの価値観も他人には受け入れてもれえないものになってしまうのです。少なくとも否定された相手にとっては...。
全ての人が受け入れられる価値観(宗教)は、他を否定せず、穏やかに全てを包み込む事ができる心にあるのではないでしょうか。
私もある宗教に入っています。
それは、私一人しか信者がいない私だけの宗教です。私自身の中にいる神様を信じ、他を否定せず、他に押し付けないものです。
そして間違いに氣付いた時は、その考え方の修正もできます。
一人ひとりが自分の心の中に、穏やかな神様(心)を見出す事ができたのなら、すぐに荒々しさがなくなることがなくても、穏やかな神様が自分の中にいることを意識する事で、少しずつでも穏やかで落ち着いた、何事も楽しめる自分に近づけるのではないでしょうか。
「小さな親切、大きなお世話」の意味
「小さな親切、大きなお世話」という言葉があります。
これは一般的に、あなたのためにと親切心でした行いが、それを受けた人にとっては迷惑になってしまうというものです。
それでは、親切心から行う行為は間違いなのかというと、そうではありません。
誰かを幸せにしたい、楽にしてあげたいと思う心は大切なものです。
しかしこれは、相手から頼まれてした行いでないという点に問題があるようです。
相手から頼まれてもいない状態で、こちらの一方的な「きっとこうしてあげたら喜ぶだろう」という思い込みがもととなっておこなう行為は、時に相手が望んでいない行為となってしまう場合があるという事なのです。
もしそんな一方通行の親切心で何かを行う時は、相手を嫌な氣持ちにさせてしまうかもしれないという心構え、つまり自分の好意を否定される覚悟があってはじめて行えるのではないでしょうか。
よく「あなたの為を思ってしてあげたのに」と相手に拒絶された事を逆恨みする人もいますが、その人は、自分の行いが正しくて、それを受け入れない事は間違いであるという我が強い考え方だといえるかもしれません。
親切心から出た行動であれ、それは自分の感覚の中だけの親切なのです。
誰かに自分の思いを伝える事と押し付けるという事は全く違うものなのです。
伝えたうえで、相手がどうその思いを受け取って返答するかという事は、相手の自由なのです。
また、こちらが相手に何かを望む場合があります。
子どもの時など、身近な人に依存して(あまえて)いる時は、身の回りの人が自分の思い通りにしてくれて当たり前だと思っているので、お願いしなくてもしてくれて当然という思いが強くあります。
だから自分の思い通りにいかないと不満を爆発させるのです。
しかし大人になれば、自分の氣持ちを伝えなければ相手は理解できない場合のほうが多いのだという事、そして相手は自分の思い通りに動いてくれないものだという事を学びます。
そしてはじめて、誰かに何かをして欲しい時には、その氣持ちを相手に伝えてお願いするという行いが出来るようになるのです。
それが理解できてはじめて、本当の「小さな親切」が出来る条件が整うのではないでしょうか。
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