氣付き帳 part 1

いいことはおかげさま、わるいことはみからでたさび

私の好きな言葉のなかに「いいことはおかげさま、わるいことは身からでたさび」という言葉がある。

これは、相田みつをさんの詩のひとつなのですが、まさにその通りだと思っている。

私は今まで心の勉強を通して学んだ中に、人間的レベル(ホントはレベルという言葉は好きではないが)が高い人、いわゆる人間ができているといわれる人は共通して謙虚であるということが解った。

身の周りに起こった幸せな事は、全て自分の力で手に入れたのだと思っている方は、「私が○○したからだ」という強い「我」がある。

そんな言葉を聞いて周りの人たちは良い氣持ちにはけっしてならない。

周囲の人にマイナスの感情を与えやすい言葉を平氣で発する(思っている)人が人間的に成熟しているとはまず思えない。

そうすると、「私が」の反対に「皆様のおかげで」と思い、周囲の人に感謝して謙虚になる事が出来るひとは心が成熟していると言えるのではないだろうか。

そして、「悪い事」と自分が考えている出来事が己の身に降りかかった時、周囲の人を責めてしまうとその時点で自分の成長はストップしてしまう。

そして周囲を攻撃し、その相手から自分自身も攻撃を受けてしまう事になる。

しかし「わるいことは身からでたさび」と思う事が出来る人は、一見悪い出来事と思ってしまう事でも、自分にとっての成長の材料に変えてしまう事ができるのだ。

「いいことはおかげさま、わるいことは身からでたさび」と本当に思えるひとは、どのような出来事が起ころうとも、ただ「ありがたい」という思いしか生まれず、ただただ謙虚で感謝する心を周囲に伝える事になるのだろう。

そうなると、そんな人の前には不幸な出来事などひとつも起こる事は無くなるのではないだろうか。

そんな人に私もなりたいといつも思っている。

つくづく「謙虚な心」の大切さを痛感している今日この頃。

イメージ力

私が合氣道を通して学んだことの一つにイメージする事の大切さというものがある。

例えば、相手に手首を捕まれている状態で手を上方向に動かしたい時、相手の手を力にまかせて動かそうとすれば反発される。しかしその手で自分の頭をかくという事だけをイメージして自分の手を動かせば、相手に捕まれていようともその手は上方向へとかるがる動く。

この頭をかくというイメージが明確にできるかできないかが重要なポイントになってくる。

いつものようにただ頭をかくという行動をとる時に、意識はかゆい所に瞬時に飛ぶ。

手を動かそうというような意識はせずとも手はかゆいところ目がけて動くのである。

このように意識せずに自分の身体を使う事ができれば、相手にどう押さえつけられようとも自由に自分の身体を使う事ができる。

しかし誰かに手首を握られ自由を奪われた時に、相手の手を意識せずに自分の手を動かせといってもかなり難しい。

そんな時に必要となるのがイメージ力である。

ただ頭をかく、それだけをはっきりとイメージできれば、相手の手など氣にすることなく自分の手を使う事ができる。

しかしイメージがぼやけてしまうと、色んなものが氣になりだして自分の意識が明確に使えなくなる。

それによって迷いや不安がおきて相手とぶつかり、持たれているところが動かせなくなってしまう。

つまりイメージする力が強ければ、そのイメージ通りの動きが可能になるということなのだ。

今の子供たちはイメージする力が乏しいせいで、自分の取った行動が周囲にどのような影響を及ぼすのかがイメージできず、周囲の人を傷つけたり、自分自身までも追い込んでいってしまう行動をする事が多い。

色んな事を想像し、明確にイメージすることができればもっと楽しい社会になると私は考えている。

イライラのもと

今日はイライラのもとについて書いてみようと思う。

人間誰しもイライラすることがあると思います。

そこでなぜ人はイライラするのでしょうか?

それは人によって様々で、わたしはこんなことがあったらイライラするという方もいるでしょうし、同じ状況でも私ならイライラしないと言われる方もいるでしょう。

つまりその時の状況が人をイライラさせているのではなくて、その状況をどう感じ取るかでイライラ「する」「しない」が分かれるのです。

過去に積んだ経験や人それぞれの考え方など、実際に形として存在していない自分自身のうちがわにある心(受け取り方)が「イライラ」という感情を生み出しているのです。

心理学でもこの考え方が一般的ですし、般若心経でも同じことをといているようです。

人は完璧ではないので、弱さを誰しもが持っています。

だから何か自分にとって都合の悪いことや期待どうりに物事が進まなかった時には、イライラして誰かのせいにしてしまったりするのです。

でもそんな時に、このイライラした氣持ちをつくったのは相手ではなく自分自身なんだと心に語りかけることができれば、今までは相手を攻めていただけのマイナスの感情や行動が、突然自分自身の成長につながるプラスの感情や行動に変化するのです。

イライラした時に、どのような自分の弱さや未熟さがあるからイライラしたのだろうかと考えて、それを発見すことが大切なのです。

それをするには少し勇氣がいるかもしれません。

なぜなら自分の未熟な部分を100%認めなければいけないからです。

それは誰かに言われたからでもなく、ただただ自分で自分の未熟さを受け入れなければならないからです。

それが出来た時に、今までイライラしていた場面であってもイライラせずに自分のために行動し成長できることが可能になるのです。

そうすることで自分を成長させ、また周囲にいる身近な人達にも良い影響を与えられる存在になることができると私は確信しています。

とらわれた心を自由にする

合氣道は武道なので相手を投げたり押さえたりします(かたち的には)。

しかし、合氣道は相手を制することを目的とはしておらず、相手と共に歩むことをひとつの目的としています。

それをする為には、相手を押したり引いたりといった「争う氣持ち」をおこさないことが必要になります。

そんな「争う氣持ち」があると一緒に歩むどころか、反発しあって相手を投げることができなくなってしまうのです。

そうなってしまう心の状態のひとつに「とらわれる」という心あります。

相手に手首をつかまれると、そのつかまれた手首を振りほどこうとして動かそうとします。

つまり手首に意識が集中してとらわれた心の状態になってしまうのです。

こんな状態では相手を導き投げることができません。

そんな時はどうするかというと、少しこの状況を角度を変えて見てみるのです。

手首をつかまれている⇒持たれた手首は動かないがその他は自由に動く⇒持たれて動かせない部分は、身体の表面積のほんの数パーセントにしか過ぎないので、ほとんどの部分が自由に動く

このように動かせない部分から動かせる部分に意識を切り替えて、動かせるところを生き生きと動かすと、多くの部分につられて動かせなかった部分までも一緒に動き出すのです。

これは合氣道だけではなく全てに共通していえる事ではないでしょうか。

ひとは悩むとそのことにとらわれ、心の自由をなくしてしまいます。

そんな時にうまく氣持ちを切り替えることができれば、なんなく問題を解決するアイデアや氣付きが生まれるのではないでしょうか。

「簡単に氣持ちを切り替えることができれば苦労は無い」と思うひとが大半だと思いますし、「心を切り替えて本当にうまく問題を解決できるのか」と疑問にも思うかも知れません。

私もそう思っていたのですが合氣道の稽古を通して、今まで全く動かなかった相手につかまれた手が簡単に動きだし、力を使わずに相手を投げることができた感覚を何度も体験していると、その不思議さと驚きで疑う氣持ちすらなくなってしまうのです。

私の合氣道の先生はこう言っていました。

「今の世の中で合氣道を使い実際に誰かを投げる機会などほぼないでしょう。だから合氣道を学んでもしょうがないのです。皆さんは合氣道を学ぶのではなく、合氣道から多くのことを学びそれを日常生活でいかしてくれなければ、ここに稽古に来る意味がありませんよ」と。

越えたい壁

合氣道を習い始めた時、合氣道を学ぶ目的をすぐに教えていただきました。

つまり、スタート地点に立った瞬間からゴール地点を双眼鏡で見せてもらったのです。

そんな状態で稽古をしていると、早くゴールにたどり着きたいあまりにあせってそこに手を伸ばしてしまうのですが、やはり届かない状態なので氣持ちだけが空回りしていた事がありました。

木になっている果物を取りたくても、高くてとどかない状態です。

その果物があまりにも欲しくて、はしごを持ってくるという手段を取ることすら出来なくなっている感じです。

つまり目標とするものに執着してしまっていたのです。

目指す自分になる為には、そこに至るまでに段階を踏んだ成長過程があります。

その過程の一つ一つをクリアしないと最終目的地には決してたどり着けないのです。

何かに執着すると、それを手に入れる準備がまだ出来ていないにも関わらず、あせって追いかけてしまい結局手にする事が出来ない結果につながります。

つまり自分自身の力を見極める事ができないのです。

欲しいものがあるのであれば、まず冷静に自分を見なければなりません。

そしてそれを手に入れるために、自分自身に足りないものを補って、自分自身をレベルアップさせないとそこには近づく事が出来ないのです。

今、私にとって乗り越えなければいけない次の壁は、もっと深い落ち着いた心を得る事だと思っています。

それが出来なければこれより先の段階には進めないと考えています。

その為に、今まで以上に自分の心の状態を感じ取って、心の波を小さく穏やかにして行こうと思っています。

頑張らない事の大切さ

以前にも書いたと思うのですが、合氣道は、力を抜くことの大切さを教えてくれる武道です。 

言い方を変えると「頑張らない」ということを教わる武道なのです。

決して頑張ることが駄目な事だとは言っているわけではありませんが、ただ「頑張らなくてはいけない」という表現には「??」が付きます。

この「頑張らなくてはいけない」という考え方は時として、自分自身やその考えを押し付けられる周りの人に悪影響を与える事があります。

とにかく、私たちは小さな子供の頃から頑張ることは必要で、頑張らなければ駄目な人と言われてしまうような教育を受けてきたのではないでしょうか。

そんな環境の中で自然と何か「手ごたえ」がないとつまらない、「手ごたえ」がないと実感がわかない、と言ったような感覚を増大させてきた氣がします。

そして、私生活の中で手ごたえをついつい求めがちになり過ぎているのです。

合氣道の稽古で、相手に手首を握られせて腕を動かないようにしても、力を抜く事で握られた腕が軽々と動かす事ができるという現象を実感する事ができます。

力を入れてしまうと、相手の「動かされまい」とする力とぶつかってしまい、力と力の勝負になってしまうのです。

そして、腕力の強い者が勝つという当たり前の結果しか出ません。

つまりこれが、私たちが求める「実感ある勝利」というものではないでしょうか。

頑張った結果、誰かに勝利するという当たり前の話のように聞こえます。

しかしこれは、頑張らないで得るものなど存在しないという考え方をも同時に生み出してしまっているのです。

でも決してそうではありません。

「頑張らない」「手ごたえがない」という中にも大切なものが存在しているのです。

実際に合氣道の高段者に投げられると、いつ投げられたかが分からないくらい投げられた実感がありませんし、投げる側も投げた実感を感じる事はないのです。

もし投げごたえがあるのであれば、それは力で投げている事になるので、上手でないと言えるのです。

合氣道は言い方を変えれば自然の法則どおりに心と身体を使う武道とも言えるます。

人間以外の生物の中で手ごたえを求めて生きている生命があるでしょうか...。

「頑張る」という言葉は「我を張る」からきているようです。

物事を楽しむ能力さえ発達させる事ができたなら(楽しめたなら)、頑張らなくても行動できるのです。

逆もまた真なり

人間は何かについて答えを知りたがる生き物です。

私もそんな人間の一人なのですが、多くの人はその答えを導き出す方法を一つにしぼりたがるか、また一つしかないと考えているように思います。

合氣道では力を抜くことを徹底的に学ぶのですが、少しでも力が入ると本来の合氣道が出来なくなってしまいます。

なので、投げる側と受ける側が協力しながら稽古し、お互いに力を抜くという事を学ぶのです。

しかし、ある程度力を抜くことが出来る人はある時期まではスムーズに上達していくのですが、ある時点から急にスランプになったり、中途半端な状態しかつくれなくなってしまう事があります。

逆に、日頃ガチガチに力を入れる癖が付いている人が、何かのきっかけで力を抜くことを覚えると、今までのことがうそのように力を抜くことをマスターしてしまう人もいるのです。

つまり「力を抜く」という一つの答えにたどり着くために、ただその方向に進むことだけに執着してしまうと、そこにたどり着くのが遅くなってしまう場合があるのです。

真逆の「力を入れる」という事を「力を抜く」という目的のためにあえて行った時のほうが、本当の力を抜いた感覚を掴む為には必要な場合もあるのです。

「うつ病」というものがありますが、これは本来「うつ状態」と「そう状態」の2つが必ずセットになっているます。

うつ状態で暗かったと思えば、急に明るくなってそう状態に変わったりするのです。そうすることで一方に偏ったバランスを調節して、心が壊れないように自分で自分を守っているのです。

つまり、人間の心は自分自身を守る為に、うつ状態のように暗くなれば逆の明るさも同時に生み出しているのです。

目的が一つであってもその目的を達成する手段は一つではありません。

一つにこだわり過ぎると片寄が生じ、より目的から遠ざかる可能性があるのです。

もし何かに行き詰まった時、考え方を今までとは真逆にして考えてみるのもいいかのも知れません。

金魚鉢の原理

想像してみてください。もしも皆さんが金魚鉢で飼われている金魚だとして、もっと大きな金魚鉢に移りたいと思ったとします。

もっと大きな金魚鉢で生活するためには、金魚であるあなたは何をしたらよいと思いますか?

やさしい飼い主なら何も言わなくても大きな金魚鉢に変えてくれるかもしれませんが、そんなに金魚人生は甘くないと思います。

答えは簡単です。

金魚であるあなた自身が、今の金魚鉢では小さくてどうしょうもないほどに大きく成長すればいいのです。

そうすれば見かねた飼い主は、必然的に今よりも大きな金魚鉢にあなたを移し変えてくれると思います。

この話は私の合氣道の先生から聴いた話です。

多くの人は、今の環境に文句を言いながら「~だったらよかったのになぁ」などといって、今に不平不満を抱いています。

もしも神様がいるとしたら、そんな人はそれなりの大きさの金魚鉢の中で、それなりに生きている金魚にしか見えないのだと思います。

もしも、今の環境や現状をより良いものに変化させたいのであれば、今の環境では収まりきらないほどに自分を成長させることが必要になるのではないでしょうか。

今の環境が嫌だからと言って無理やり周りを変化させたとしても、それなりの自分にあった環境しか創れないのだと思います。

きっと今の環境ですべきことをし、自分自身を大きく成長させることができた時に、環境が変化せざるをえなくなるのだと思います。

金魚を飼っているあなたが、大きくなった大切な金魚をそれなりの大きさの金魚鉢に移し変えてあげたくなるのと同じように。

言葉の力

私たち人間はコミュニケーションをとるために言葉を使っています。

当たり前のように使っているので、言葉が持っている力がどのようなものなのかを把握できていない事が多々あるのではないでしょうか。

「水からの伝言」という本があります。

この本では、水に言葉を投げかけると、その投げかけた言葉によって水が氷になるときの結晶の形が大きく変化するという内容になっています。

プラスの言葉(例:ありがとう)を投げかけると水の結晶は綺麗な形になるのですが、マイナスの言葉(例:アホ・馬鹿・死ね)を投げかけた場合には結晶の形がボロボロになり、また色まで汚くなってしまうという現象が起こるそうです。

これが真実だとすれば、私たち人間は言葉の使い方を考え直さなければ大変なことになるのではないでしょうか。

私たち人間は20歳の成人の場合、約70%の水分で身体を形成しています。

つまり私たちの身体は大半が「水」なのです。

その身体にマイナスの言葉を投げかければ、その身体の水はどんどん汚れていくことになります。

そんな状態が自らにとってベストな状態とは誰も考えないと思います。

では、マイナスの言葉を聞かなければよいということになりますが、それはこの社会で人として生きている限り不可能にちかいことだと私は思います。

そこでどうするのが最も良いのかを考えると、自分自身がマイナスの言葉を使うことを止めて、プラスの言葉を使うしかないのではないでしょうか。

自分自身がプラスの言葉を発することで周りの人にも良い影響を与えられるのであれは、その中で生活している自分自身にも良い影響がかえってくることになります。

また、自分の一番近くで聞いている言葉は自分自身が発している言葉なのですから、自分の言葉が一番自分に影響を与えます。

もしも周りでマイナスの言葉があろうとも、自分がプラスの言葉を使えばマイナスの言葉の影響は最小限で済むのではないでしょうか。

家族や自分自身を大切に考えるのであれば、毎日プラスの言葉を使う必要があると私は思っています。

それから、これは私が言葉の力をはっきりと氣付いた時のことなのですが、ひとは頭の中だけで何か物事を考える時にでも、絶対に言葉を頭の中で使わなければ考えることすらできないということです。

言葉は人にとって大切なものだと実感させられます。

悟り

「悟りをひらく」という言葉があります。

私は合氣道を始めるまでこの言葉の示すところがあまりにも大きすぎて、あまり理解できませんでした。

しかし、稽古中に先生が「悟りとは差を取るということなんですよ」とおっしゃったのを聞いて「はぁ!」としました。

何か自分の中で腑に落ちなかったことが「すとん」と音をたてて腑に落ちた氣がした。

差を取るといっても色んなものがあります。

自分と誰かとの考え方の違いや自分自身の中にある矛盾した想いなどさまざまな物との間に「差」は生じています。

考え方などは人によって様々なので全ての人と考え方を同じにするにはかなり無理があります。

では何との「差」を取るのが一番手っ取り早く悟れるのだろうかと考えて出した結論は、大きな自然の法則と自分との間にできている「差」を取ることなのではないかと思う。

どういうことかと言うと、例えば心理学の中に「ABC理論」というものがあります。

これは、Aという出来事がCという自分の感情(イライラしたり腹が立つといった感情)を作り出していると思いがちですがそうではなく、Aという出来事をどう捉えるかで、次に現れるCという感情が変わってくるというものです。

物事をどのように捉えるかという捉え方Bがその後に生じる感情Cを生み出しているということなのです。

このABC理論も心の動きを表した法則といえます。

このような漠然としているようで、じつは単純でシンプルな真理を理解し、その大きな流れの中に自分をおくことができれば、人と人との間にあるささいな「差」などは消えてしまうのではないでしょうか。

自分自身が小さなことにこだわり執着した時に、「差」が生じるのです。

執着があれば身の回りに起こる出来事を自分の身勝手な見方でしか捉えられず、その物のありのままを見ることができなくなります。

そんな状態では繊細な自然の流れなど感じ取ることはできなくて当然なのです。

私の合氣道の先生の言葉で「かとこの心」というものがあります。

「か」かたよらない心、「と」とらわれない心、「こ」こだわらない心、この3つの心を大切にできれば、きっと悟れるのではないかと思っています。




 

1